fc2ブログ

水城学園 長浜寮のご飯どんぶり

 珍しく水城学園ネタ。さて、これを見てなんだかわかる人はそうそう居ないと思いますが......

どんぶり1

どんぶり2

 水城学園長浜寮のご飯どんぶりです。井尻寮、大橋寮もこのどんぶりを使用していたかはわかりませんが、少なくとも長浜寮出身者はわかるでしょう。昼食に長浜寮の食堂を利用していた人もわかるかもしれません。

 寮を出る際に、記念として1個いただいてきたものです。実家にて発掘しました。このどんぶりに生卵を6個入れてTKGにしたりしていました。水城学園が閉校になり25年もたちますし、ひょっとすると、この世に残る最後のどんぶりかもしれません。




 ついでに水城学園ネタをもう一つ
 
 延岡市で、博多ラーメンのしばらくというお店に行きました。このお店は、昭和の時代は福岡市の西新にしかありませんでした。(延岡店は支店です)

しばらく1

しばらく2

 その当時の、しばらくでの替え玉チャンピオンが、水城学園で同期生のきつうさんでした。記憶は定かでは無いですが、軽く替え玉10回以上だったと思います。(寮生か通学生かは記憶が曖昧です)その勇姿は当時の新聞には載っていたのですが、さすがに昭和のことなのでネット上ではその情報を見つけきれませんでした。

 浪人生当時は、西新の店舗までわざわざ食べに行くことはありませんでしたし、その後も1度も行くことはありませんでした。しかし今回、本店では無いものの生まれて初めてしばらくのラーメンを食べました。非常に丸みのある優しい味でした。麺が博多ラーメンっぽくないつるりとした食感の麺でした。美味しくいただきました。


 ちなみに、自分の場合、しょっちゅう食べに行っていた元祖長浜屋では通常ラーメン250円+替え玉3回で150円=400円のコースでした。

 屋台のナンバーワンでは、替え玉3回目くらいでスープを足してくれたので、私の替え玉は4~5回でした。

 この写真撮影時にはきつうさんはいません。(そういえば、きつうさんとの写真は1枚も無いな~)
ナンバーワン

 私は屋台ナンバーワンでの替え玉は最高で6回(7玉)でしたが、きつうさんはいつも普通に替え玉7回(8玉)でした。なかなか常人離れしていました。

 この記事が、いつの日にかきつうさんの目に触れたら良いと思っています。私はもう、替え玉は今となっては4回が限度ですが(普通は2~3回)、きつうさんはまだ10回とか出来るのかな?

※以下に元長浜寮生さんから、きつうさん情報が入りましたので紹介します。(2023/2/26)
私はきつうさんの一浪目に長浜寮で同じ部屋でした。一緒に長浜ラーメン食べに行くと、自分は替え玉2つ、きつうさんは8つで待っている時間が長かったのを覚えています。
また、彼は大食いで賞金稼ぎしていたのですが、あまりに何回もクリアしたらしく出禁になり、怒っていましたね。。。いずれにしろ、長浜寮での1年間は私にとって、貴重で何物にも代えがたい経験だったと思います。

私のピエロ そこがちょっと違うんだ 水城学園での昼食  

 水城学園のことを思い出したので、ついでに書いておきます。私の昼食は、基本は長浜寮の学食でした。校内の食堂もありましたが、寮の食堂の方が美味しかったです。特にチャンポン(330円?)は絶品でした。ただこれは作るのに時間がかかるので、寮に一番最初に到着し注文しないと午後の授業に間に合わなさそうでした。

 お金がない時はおにぎり定食(250円?)でした。もっとお金がない時は、ショッパーズでお一人様5個までで安売りしていた、どん兵衛やベジタブルヌードル。完全にお金がない時は、朝食の白飯と卵を残しておき自分の部屋に戻り、昼に食べました。そういえば、安かったので英数学舘にももぐりこんだりもしていたなぁ。

 時間がある時は、ラーメンの一心亭(移転して営業中)や、元祖長浜屋(1杯250円替え玉50円)でした。もう少し余裕があれば、天神西鉄駅近くの元祖赤のれん 節ちゃんラーメン(現役)や出来たばかりの一風堂(今や有名チェーン店)でした。

 気分を変えてちょっとリッチな気分の時には、私のピエロ そこがちょっと違うんだに行っていました。長浜寮近くの路地にひっそりとあるお店でした。(1978年5月4日開店~2003年5月9日閉店)

 2階にあるお店で、1階の入り口にあったそこがちょっと違うんだという変な看板が気になって気になって仕方なくなり、つい入ってしまいました。

 お店の中は、ブリキのおもちゃや、マスターの描かれたピエロの絵、ガラスビンのヤクルト等色々飾ってあり楽しくアートな雰囲気でした。

 フランクザッパそっくりで、ヘロヘロしゃべりのマスターが最高でした。店内に飾られていたフランクザッパの写真を指さして「これは僕だよエヘエヘエヘ」とか言っていましたが、普通の人は信じてしまうくらい似ていました。この下のアルバムジャケットのような感じの写真だった気がします。色は緑っぽかった気がします。マスターに比較すれば、お店のお手伝いをしていた奥様はいたってノーマルな感じの方でした。

GuitarGuitar
Frank Zappa

Zappa Records 1995-05-02
売り上げランキング : 78228

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

 当時食べていたのはランチやミックスサンドでした。いずれも550円くらいで美味しくて、量もありました。もちろんお約束のバナナジュースも飲んでいました。バナナジュースはジューサーで作って中ジョッキに入れてくれました。少なくなるとニヤニヤしながら継ぎ足してくれました。女の子はあれだけでお腹いっぱいになるかも?友人達にも紹介しましたが、非常に評判が良かったです。(特に女子受けが良かったです。)私がランチで来店した時に、ライス切れのためパンで和定食を食べたのも良い思い出です。

 このお店の情報はネット上ではほとんど見られなかったのですが、今回やっと見つけました。以下のリンクにご夫婦のHPがあります。
http://www.kokonesian.com/KenjiKayokoHarada.html

 マスターの原田健治さんは見た目がアーティストでしたが、アーティストが本職だったようですね。お店が本職だと思っていました。奥様もアーティストだったなんて全く知りませんでした。 

 しかし、大変残念なことにマスターは2010年3月2日に亡くなられたそうです。もうマスターに会えないなんて淋しいです。

水城学園の素晴らしき講師陣の思い出

 原発事故で平井先生を思い出したついでに、水城学園の講師陣についてちょっと書いておきます。私は昭和61年(1986年)の1年間お世話になりました。(長浜寮)水城学園は元々代ゼミ系の予備校でしたが関係が決裂してしまい、その年になんと代ゼミ本体が博多に進出しました。
 代ゼミに生徒をとられないために有名講師を多数投入した年でびっくりするほど素晴らしい講師陣でした。(当時の多浪生談)
 しかし、代ゼミに生徒が流れて集まらない上に、講師料にお金をつぎ込み過ぎて、直前講習時期には有名講師はほとんど来なくなっていました。(私のように直前講習だけは河合塾に通う生徒が結構いました)

 前述の数学の平井先生(白井先生)のように、特に思い出に残る先生方を紹介します。

佐藤勝(現代文)
 看板講師の1人でした。私は授業の前に毎回解答を板書し、授業中に添削してもらいました。(板書は競争でしたよ)現代文というファジーな科目を、万人がきちんと納得できるように説明してくれる先生でした。給料は凄く高そうでした。現在、文章を書くことがあまり苦ではないのは佐藤先生のおかげです。

佐藤勝先生

青木 裕司(世界史)
 現在も日本一といわれている現役世界史講師。(現在は河合塾)私は地理選択でしたので、ベトナム戦争に関する最後の授業しか受けていませんが非常に印象深い先生です。早くから場所取りに並んで、授業を受けました。立つスペースもないほどの超満員の大教室で、赤い人民服を着てビールを飲みながらベトナム戦争に関して熱く語る様は魂の叫びと狂気渦巻く極上のエンターテイメントでした。青い服を着た生徒に向かって「おまえは敵だ」と言っていました。(とってもな先生のようです。青は警察の色ですね。)
 青木先生の授業を受けるためだけに水城を選んだ人も結構いました。給料は凄く高そうでした。

久野先生(数学)
 見るからに非常に頼りなげで人気はイマイチ?でしたが、ハードでマニアックな内容を解りやすく解説する授業が、理系難関大志望生徒には地味~に人気でした。薄給でこき使われていたと思います。

久野先生

中野先生(物理)
 プリントには毎回いしいひさいちの4コママンガが印刷されていました。それほど教え方が凄いというわけではなかったのですが、非常にアカデミックで物理の魂(スピリット)を感じさせる熱い熱い先生でした。もちろん薄給でしょう。この方も偽名だったかも?
 とってもな先生で、そのために大学では偉くなれないようでした。予備校の(豪華な)職員室もお気に召さないらし
く、水城コミューンという、いかにもな名前の職員室?集会所?アジト?を作ってそこのリーダーとして君臨していました。
 水城学園から九州大学に進学した私の友人(コミューンに出入りしていた女子)は、先輩合格者座談会で再会した時に真っ黒に日焼けしていたので、「凄く日焼けしたね~」って言ったら、「今は運動をしているから」っていう答えでした。彼女は中野先生の教えの元に立派な運動家(活動家?)になっていました。連日のビラ配りで日焼けしたそうです。そういえば、同じく座談会に出席した防衛医科大に進学した友人も数ヶ月でムキムキ真っ黒になっていて驚いたなぁ~。(彼の場合は訓練)

久能昭(英語) 故人1994年3月没 享年63歳
 べ平連の活動家であったため、まともな職に就けなかったそうです以下のコメント欄参照↓詳細が書いてあります。
 東京の予備校の有名講師で雑誌に出たりもしていました。水城で教鞭を執ったのはこの1年だけだったと思います。(それも、夏期講習のみだった気がします)
 長く難しい英文を訳していくクラシカルなタイプの授業でした。発音はお世辞にも上手といえませんでしたが、大変解りやすい授業でした。授業の合間に挟む哲学っぽい話や、インドの話が非常に面白かったです。久能先生を魅了したインドに一度行ってみたいです。食事にも連れて行ってもらい非常に濃い~話をしていただきました。最も印象深い先生の1人です。かなり有名でしたし、給料は凄く高かったと思います。

久能昭先生

川崎 裕治(英語) 
 アウトローな熱い先生でした。好き嫌いが分かれる先生でもありました。もちろん私は好きでした。現在も代ゼミ福岡校の講師です。以下リンク先から動画も見られます。(30秒ですが、凄く懐かしい内容です。onとoverの違いの解説ですね。他のバージョンも色々習いましたよね。)リンク先の文章を読んでも、相変わらずのアウトローっぷりですね。また授業を受けてみたいです。アウトロー講師陣の中では、当時から人気がありかなりの高給取りだった気がします。
http://www.yozemi.ac.jp/les/koshi/kyushu_eng.html

川崎裕治先生

武藤先生(英語)
 夏期講習のみの、ぱりっとしたイケイケハイテンションな初老のジェントルマンでした。東京の有名予備校の講師だとかの噂でした。武藤は偽名で、本名は三浦新市?とのことでした。(水城の元講師?)年齢を感じさせないだけでなく、他に類を見ないほどの非常にスピード感のあるハイテンションな授業でした。頭の回転が異常に速い印象でした。「外交官は世襲だから、有名な国の外交官になるのは無理」他、色々と大人の裏事情を教えてもらいました。かなりの高給取りだったようです。

 前述したとおり、アウトローなイッちゃっている先生方が特に印象深かったですね。(佐藤先生は除く)王道で印象に残るのは、水城学園の顔で受験指導以外も素晴らしかった熱い魂の指導の数学磯野幸先生(下の写真)、英語のダンディー八幡光先生(現日本経済大学講師?)、非常に解りやすかった基礎化学の鶴山先生かな。(化学は得意でしたがあえて基礎化学を受講しました)チューターの原田先生を始め、他にも素晴らしい先生が多かったです。

磯野幸先生

 他には習ってはいませんが美人の地学岡口先生(青木先生もファンだったそうです)、そうかそうかそうかそうじょぉ~の数学おじいちゃんの早川先生が印象深いです。 

 以下の写真は数学科の先生方です。左から、岩田先生、磯野先生、早川先生、久野先生、?先生、原田先生ですね。
数学の先生

 写真は私が所有する1986年のパンフレットからです。(久能先生は除く)先生方の名前は二学期の時間割プリントから拾い上げました。1997年に閉校して長期間経ち、学校の建物以外はきれいさっぱり消滅してしまい、ネット上にもほとんど情報・資料が存在しないため、パンフは当時の水城学園を知る貴重な歴史的資料かとおもいます。他にも誰か水城学園の資料をお持ちの方はいないんですかね。あの時代ですから、写真もほとんど撮っていないんですよね。普通の学校ではなく予備校なので同窓会組織もなく、個人所有の資料以外はほとんど残っていないんでしょうね。

 水城学園では、受験勉強以外のことも色々学ばせてもらいました。非常に価値ある大切な1年間でした。ちなみに、ここでやたらと給料を気にしているのは、代ゼミ系の予備校だったため、学園側の講師の扱いがあからさまに違っていたからです。有名講師は、東京から飛行機通勤で西鉄グランドホテルに宿泊し、タクシーで毎日送り迎えでした。職員室の机の配置大きさも違っていた気がします。

※高校時代で良い意味で思い出深いのは、やはりすむじましつぎはつぬたりけむしゅしらんめりまじらしべしとなりとごとしはれんたいにつくや、もものぉ~よぉ~うよぉ~うたるの佐伯先生や、1年の時の担任の完全放任・自己責任徹底の大ハゲ坂元先生、イカレポンチの高須賀先生ですね。

原発事故と平井孝治先生(元水城学園数学講師)

 福島第一原子力発電所が人災を起こして早3週間が経ちました。嫁の実家は農家なので土壌汚染が非常に心配です。3月末に蒔くはずの種もみを、いまだに蒔くことが出来ない状況です。福島県では今年の米の収穫はもう無理かも?(今年だけならまだマシか....半減期の長いセシウム等が心配です。ヨウ素も本当に放出は止まったのか???)

 私は極端な反原発論者ではありませんが、原発は絶対に危ないなぁ~と日頃から思っていました。特に日本は立地的にも危険ですし、管理面では明らかに駄目でしたし、今回その駄目さが最悪の形で証明されました。一時期原子力工学科も考えていましたが、自分の身が危なそうなのでやめました。

 私が原発は危ないものだと考えるきっかけを作ったのは、水城学園予備校時代の平井孝治先生です。平井先生は、九州大学の助手時代に、白井なんとかという偽名で数学講師をなさっていました。(偽名のことは知らない生徒がほとんどでした。みんなの記憶では白井先生のはず。)
平井孝治先生

 メジャーなタレント講師では無かったのですが、非常に解りやすい授業で、人格的にも優れ、理系難関大学を目指す生徒からは絶大な信頼と人気でした。

 その当時(昭和61年)から、「白井先生は反原発だから偉くなれない」ともっぱらの噂でした。同様に物理の中野先生も反原発だったので偉くなれないとの噂でした。平井先生は、実際に九州大学では偉くなれずに、立命館大学に移り教授になられたようです。(既に退官)

 平井先生は、記念すべき第一回の朝まで生テレビに出演し、広瀬隆氏らとともに反原発について熱く語られていました。もちろん、テレビの前で応援しましたよ。平井先生は、ふくいちの人災を苦々しく思われていることでしょう。

 平井先生についてはここここにも少しだけ出ています。(先生の若い頃の写真も見られます)

水城学園と私

 釣り男さんから、「水城学園って何?」という質問があったのでここに書いておきます。宮崎大宮高校を卒業した私は大学に落ちて浪人することになりました。つい数年前まで母校には、4年生(補習科、通称S組 2クラス編成)が存在しており、(裏切り者以外の)浪人生はそこに通うことになっておりました。私は学校からは裏切り者扱いされましたよ。

 しかし、学校嫌い・家嫌いの私は、運良く授業料も免除になったので我が予備校「水城学園」に通うことになりました。長浜ラーメンの聖地、福岡県長浜にあったKBC放送局隣の、長浜寮で1年間を過ごしました。

 水城学園は、代ゼミ系列の予備校でしたので、強力な講師陣を有する代わりに、出欠・生活面の管理はやらないという特徴がありました。
 勉強をとてもしたい人、勉強をとてもしたくない人、両極端な生徒にぴったりの予備校でした。普通の生徒が行くならやはり河合塾でしょうね。

 私が在籍した年に、本家の代ゼミが(裏切って???)福岡市の博多区に進出してきました。そのため、相当数の生徒を代ゼミにとられた年でした。そのおかげで、比較的空いた環境で勉強が出来ました。水城もその年は代ゼミに負けじと、大金を投じて有名講師を呼んできており、講師陣も素晴らしい方たちばかりでした。

 素晴らしい講師から(授業によっては)比較的少人数で指導が受けられました。ただ、冬期講習や直前講習にはお金がつきたのか、有名講師はぱったりと来なくなりましたね。かくいう私も、直前講習?(冬期講習?)は河合塾福岡校に通いました。

 浪人して結果的に、まあ一応大学には合格することが出来たので良しといえます。しかし、それよりも勉強のおもしろさを学ぶことが出来たのが大きかったですね。その時の遺産は目には見えませんが、私の血肉となり今も脈々と生き続けていると思います。

 たった1年間でしたが、よく遊び・よく学んだ自分の人生の中でも、最も気迫に満ちて最も充実していた1年間だったと思います。高校や大学では燻っていましたからねぇ。あまり学校にも行きませんでしたし...
最新の記事

やっと秋っぽくなってきました Sep 24, 2023
避暑を兼ねて礼文島プチ遠征 狙いはもちろん鮭 Sep 17, 2023
鮭は来たのか???調査 Sep 07, 2023

FC2カウンター

プロフィール

1967年生まれの80年代を愛するヲタクです。 利尻島の釣り情報をメインに発信していきます。

ブログランキング関係

一応参加しています。

にほんブログ村 釣りブログ ロックフィッシングへ にほんブログ村 釣りブログ 北海道釣行記へ

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

プライバシーポリシー

当ブログでは、第三者配信による広告サービスを利用し、 ユーザー様が閲覧する他のサイト、興味のある広告を配信しています。

そのため、当サイトや他サイトへのアクセスに関する情報 (氏名、住所、メール アドレス、電話番号は含まれません) を使用することがあります。

当サイトや他サイトへのアクセスに関する情報 を使用されないようにする方法については、 こちらを参考し設定変更をお願いします。
詳しくは、Adsense広告の、公式プライバシーポリシーをご覧ください。