水城学園の素晴らしき講師陣の思い出
原発事故で平井先生を思い出したついでに、水城学園の講師陣についてちょっと書いておきます。私は昭和61年(1986年)の1年間お世話になりました。(長浜寮)水城学園は元々代ゼミ系の予備校でしたが関係が決裂してしまい、その年になんと代ゼミ本体が博多に進出しました。
代ゼミに生徒をとられないために有名講師を多数投入した年でびっくりするほど素晴らしい講師陣でした。(当時の多浪生談)
しかし、代ゼミに生徒が流れて集まらない上に、講師料にお金をつぎ込み過ぎて、直前講習時期には有名講師はほとんど来なくなっていました。(私のように直前講習だけは河合塾に通う生徒が結構いました)
前述の数学の平井先生(白井先生)のように、特に思い出に残る先生方を紹介します。
佐藤勝(現代文)
看板講師の1人でした。私は授業の前に毎回解答を板書し、授業中に添削してもらいました。(板書は競争でしたよ)現代文というファジーな科目を、万人がきちんと納得できるように説明してくれる先生でした。給料は凄く高そうでした。現在、文章を書くことがあまり苦ではないのは佐藤先生のおかげです。

青木 裕司(世界史)
現在も日本一といわれている現役世界史講師。(現在は河合塾)私は地理選択でしたので、ベトナム戦争に関する最後の授業しか受けていませんが非常に印象深い先生です。早くから場所取りに並んで、授業を受けました。立つスペースもないほどの超満員の大教室で、赤い人民服を着てビールを飲みながらベトナム戦争に関して熱く語る様は魂の叫びと狂気渦巻く極上のエンターテイメントでした。青い服を着た生徒に向かって「おまえは敵だ」と言っていました。(とっても左な先生のようです。青は警察の色ですね。)
青木先生の授業を受けるためだけに水城を選んだ人も結構いました。給料は凄く高そうでした。
久野先生(数学)
見るからに非常に頼りなげで人気はイマイチ?でしたが、ハードでマニアックな内容を解りやすく解説する授業が、理系難関大志望生徒には地味~に人気でした。薄給でこき使われていたと思います。

中野先生(物理)
プリントには毎回いしいひさいちの4コママンガが印刷されていました。それほど教え方が凄いというわけではなかったのですが、非常にアカデミックで物理の魂(スピリット)を感じさせる熱い熱い先生でした。もちろん薄給でしょう。この方も偽名だったかも?
とっても左な先生で、そのために大学では偉くなれないようでした。予備校の(豪華な)職員室もお気に召さないらし
く、水城コミューンという、いかにもな名前の職員室?集会所?アジト?を作ってそこのリーダーとして君臨していました。
水城学園から九州大学に進学した私の友人(コミューンに出入りしていた女子)は、先輩合格者座談会で再会した時に真っ黒に日焼けしていたので、「凄く日焼けしたね~」って言ったら、「今は運動をしているから」っていう答えでした。彼女は中野先生の教えの元に立派な運動家(活動家?)になっていました。連日のビラ配りで日焼けしたそうです。そういえば、同じく座談会に出席した防衛医科大に進学した友人も数ヶ月でムキムキ真っ黒になっていて驚いたなぁ~。(彼の場合は訓練)
久能昭(英語) 故人1994年3月没 享年63歳
べ平連の活動家であったため、まともな職に就けなかったそうです。以下のコメント欄参照↓詳細が書いてあります。
東京の予備校の有名講師で雑誌に出たりもしていました。水城で教鞭を執ったのはこの1年だけだったと思います。(それも、夏期講習のみだった気がします)
長く難しい英文を訳していくクラシカルなタイプの授業でした。発音はお世辞にも上手といえませんでしたが、大変解りやすい授業でした。授業の合間に挟む哲学っぽい話や、インドの話が非常に面白かったです。久能先生を魅了したインドに一度行ってみたいです。食事にも連れて行ってもらい非常に濃い~話をしていただきました。最も印象深い先生の1人です。かなり有名でしたし、給料は凄く高かったと思います。

川崎 裕治(英語)
アウトローな熱い先生でした。好き嫌いが分かれる先生でもありました。もちろん私は好きでした。現在も代ゼミ福岡校の講師です。以下リンク先から動画も見られます。(30秒ですが、凄く懐かしい内容です。onとoverの違いの解説ですね。他のバージョンも色々習いましたよね。)リンク先の文章を読んでも、相変わらずのアウトローっぷりですね。また授業を受けてみたいです。アウトロー講師陣の中では、当時から人気がありかなりの高給取りだった気がします。
http://www.yozemi.ac.jp/les/koshi/kyushu_eng.html

武藤先生(英語)
夏期講習のみの、ぱりっとしたイケイケハイテンションな初老のジェントルマンでした。東京の有名予備校の講師だとかの噂でした。武藤は偽名で、本名は三浦新市?とのことでした。(水城の元講師?)年齢を感じさせないだけでなく、他に類を見ないほどの非常にスピード感のあるハイテンションな授業でした。頭の回転が異常に速い印象でした。「外交官は世襲だから、有名な国の外交官になるのは無理」他、色々と大人の裏事情を教えてもらいました。かなりの高給取りだったようです。
前述したとおり、アウトローなイッちゃっている先生方が特に印象深かったですね。(佐藤先生は除く)王道で印象に残るのは、水城学園の顔で受験指導以外も素晴らしかった熱い魂の指導の数学磯野幸先生(下の写真)、英語のダンディー八幡光先生(現日本経済大学講師?)、非常に解りやすかった基礎化学の鶴山先生かな。(化学は得意でしたがあえて基礎化学を受講しました)チューターの原田先生を始め、他にも素晴らしい先生が多かったです。

他には習ってはいませんが美人の地学岡口先生(青木先生もファンだったそうです)、そうかそうかそうかそうじょぉ~の数学おじいちゃんの早川先生が印象深いです。
以下の写真は数学科の先生方です。左から、岩田先生、磯野先生、早川先生、久野先生、?先生、原田先生ですね。

写真は私が所有する1986年のパンフレットからです。(久能先生は除く)先生方の名前は二学期の時間割プリントから拾い上げました。1997年に閉校して長期間経ち、学校の建物以外はきれいさっぱり消滅してしまい、ネット上にもほとんど情報・資料が存在しないため、パンフは当時の水城学園を知る貴重な歴史的資料かとおもいます。他にも誰か水城学園の資料をお持ちの方はいないんですかね。あの時代ですから、写真もほとんど撮っていないんですよね。普通の学校ではなく予備校なので同窓会組織もなく、個人所有の資料以外はほとんど残っていないんでしょうね。
水城学園では、受験勉強以外のことも色々学ばせてもらいました。非常に価値ある大切な1年間でした。ちなみに、ここでやたらと給料を気にしているのは、代ゼミ系の予備校だったため、学園側の講師の扱いがあからさまに違っていたからです。有名講師は、東京から飛行機通勤で西鉄グランドホテルに宿泊し、タクシーで毎日送り迎えでした。職員室の机の配置大きさも違っていた気がします。
※高校時代で良い意味で思い出深いのは、やはりすむじましつぎはつぬたりけむしゅしらんめりまじらしべしとなりとごとしはれんたいにつくや、もものぉ~よぉ~うよぉ~うたるの佐伯先生や、1年の時の担任の完全放任・自己責任徹底の大ハゲ坂元先生、イカレポンチの高須賀先生ですね。
代ゼミに生徒をとられないために有名講師を多数投入した年でびっくりするほど素晴らしい講師陣でした。(当時の多浪生談)
しかし、代ゼミに生徒が流れて集まらない上に、講師料にお金をつぎ込み過ぎて、直前講習時期には有名講師はほとんど来なくなっていました。(私のように直前講習だけは河合塾に通う生徒が結構いました)
前述の数学の平井先生(白井先生)のように、特に思い出に残る先生方を紹介します。
佐藤勝(現代文)
看板講師の1人でした。私は授業の前に毎回解答を板書し、授業中に添削してもらいました。(板書は競争でしたよ)現代文というファジーな科目を、万人がきちんと納得できるように説明してくれる先生でした。給料は凄く高そうでした。現在、文章を書くことがあまり苦ではないのは佐藤先生のおかげです。

青木 裕司(世界史)
現在も日本一といわれている現役世界史講師。(現在は河合塾)私は地理選択でしたので、ベトナム戦争に関する最後の授業しか受けていませんが非常に印象深い先生です。早くから場所取りに並んで、授業を受けました。立つスペースもないほどの超満員の大教室で、赤い人民服を着てビールを飲みながらベトナム戦争に関して熱く語る様は魂の叫びと狂気渦巻く極上のエンターテイメントでした。青い服を着た生徒に向かって「おまえは敵だ」と言っていました。(とっても左な先生のようです。青は警察の色ですね。)
青木先生の授業を受けるためだけに水城を選んだ人も結構いました。給料は凄く高そうでした。
久野先生(数学)
見るからに非常に頼りなげで人気はイマイチ?でしたが、ハードでマニアックな内容を解りやすく解説する授業が、理系難関大志望生徒には地味~に人気でした。薄給でこき使われていたと思います。

中野先生(物理)
プリントには毎回いしいひさいちの4コママンガが印刷されていました。それほど教え方が凄いというわけではなかったのですが、非常にアカデミックで物理の魂(スピリット)を感じさせる熱い熱い先生でした。もちろん薄給でしょう。この方も偽名だったかも?
とっても左な先生で、そのために大学では偉くなれないようでした。予備校の(豪華な)職員室もお気に召さないらし
く、水城コミューンという、いかにもな名前の職員室?集会所?アジト?を作ってそこのリーダーとして君臨していました。
水城学園から九州大学に進学した私の友人(コミューンに出入りしていた女子)は、先輩合格者座談会で再会した時に真っ黒に日焼けしていたので、「凄く日焼けしたね~」って言ったら、「今は運動をしているから」っていう答えでした。彼女は中野先生の教えの元に立派な運動家(活動家?)になっていました。連日のビラ配りで日焼けしたそうです。そういえば、同じく座談会に出席した防衛医科大に進学した友人も数ヶ月でムキムキ真っ黒になっていて驚いたなぁ~。(彼の場合は訓練)
久能昭(英語) 故人1994年3月没 享年63歳
東京の予備校の有名講師で雑誌に出たりもしていました。水城で教鞭を執ったのはこの1年だけだったと思います。(それも、夏期講習のみだった気がします)
長く難しい英文を訳していくクラシカルなタイプの授業でした。発音はお世辞にも上手といえませんでしたが、大変解りやすい授業でした。授業の合間に挟む哲学っぽい話や、インドの話が非常に面白かったです。久能先生を魅了したインドに一度行ってみたいです。食事にも連れて行ってもらい非常に濃い~話をしていただきました。最も印象深い先生の1人です。かなり有名でしたし、給料は凄く高かったと思います。

川崎 裕治(英語)
アウトローな熱い先生でした。好き嫌いが分かれる先生でもありました。もちろん私は好きでした。現在も代ゼミ福岡校の講師です。以下リンク先から動画も見られます。(30秒ですが、凄く懐かしい内容です。onとoverの違いの解説ですね。他のバージョンも色々習いましたよね。)リンク先の文章を読んでも、相変わらずのアウトローっぷりですね。また授業を受けてみたいです。アウトロー講師陣の中では、当時から人気がありかなりの高給取りだった気がします。
http://www.yozemi.ac.jp/les/koshi/kyushu_eng.html

武藤先生(英語)
夏期講習のみの、ぱりっとしたイケイケハイテンションな初老のジェントルマンでした。東京の有名予備校の講師だとかの噂でした。武藤は偽名で、本名は三浦新市?とのことでした。(水城の元講師?)年齢を感じさせないだけでなく、他に類を見ないほどの非常にスピード感のあるハイテンションな授業でした。頭の回転が異常に速い印象でした。「外交官は世襲だから、有名な国の外交官になるのは無理」他、色々と大人の裏事情を教えてもらいました。かなりの高給取りだったようです。
前述したとおり、アウトローなイッちゃっている先生方が特に印象深かったですね。(佐藤先生は除く)王道で印象に残るのは、水城学園の顔で受験指導以外も素晴らしかった熱い魂の指導の数学磯野幸先生(下の写真)、英語のダンディー八幡光先生(現日本経済大学講師?)、非常に解りやすかった基礎化学の鶴山先生かな。(化学は得意でしたがあえて基礎化学を受講しました)チューターの原田先生を始め、他にも素晴らしい先生が多かったです。

他には習ってはいませんが美人の地学岡口先生(青木先生もファンだったそうです)、そうかそうかそうかそうじょぉ~の数学おじいちゃんの早川先生が印象深いです。
以下の写真は数学科の先生方です。左から、岩田先生、磯野先生、早川先生、久野先生、?先生、原田先生ですね。

写真は私が所有する1986年のパンフレットからです。(久能先生は除く)先生方の名前は二学期の時間割プリントから拾い上げました。1997年に閉校して長期間経ち、学校の建物以外はきれいさっぱり消滅してしまい、ネット上にもほとんど情報・資料が存在しないため、パンフは当時の水城学園を知る貴重な歴史的資料かとおもいます。他にも誰か水城学園の資料をお持ちの方はいないんですかね。あの時代ですから、写真もほとんど撮っていないんですよね。普通の学校ではなく予備校なので同窓会組織もなく、個人所有の資料以外はほとんど残っていないんでしょうね。
水城学園では、受験勉強以外のことも色々学ばせてもらいました。非常に価値ある大切な1年間でした。ちなみに、ここでやたらと給料を気にしているのは、代ゼミ系の予備校だったため、学園側の講師の扱いがあからさまに違っていたからです。有名講師は、東京から飛行機通勤で西鉄グランドホテルに宿泊し、タクシーで毎日送り迎えでした。職員室の机の配置大きさも違っていた気がします。
※高校時代で良い意味で思い出深いのは、やはりすむじましつぎはつぬたりけむしゅしらんめりまじらしべしとなりとごとしはれんたいにつくや、もものぉ~よぉ~うよぉ~うたるの佐伯先生や、1年の時の担任の完全放任・自己責任徹底の大ハゲ坂元先生、イカレポンチの高須賀先生ですね。
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このエントリーのカテゴリ : 水城学園
貴重な情報ありがとうございました
一応投稿は非表示としました
ペンネームが合田新介だったんですね
私のもらった色紙にaidaって書いてありました
訂正しておきます。
いずれにせよ、素晴らしい先生であったことは変わりないですよね。
久能昭先生に教わったことのある通りすがりの者ですが,間違いと思われる箇所のご指摘を.
久能先生はべ平連の活動家であったことは,ご本人からうかがったことがありますが,いわゆるまともな就職ができなかったのは,京都大学の学生時代に学生運動に深くかかわり過ぎたためとのことでした.べ平連は,その10年以上後の出来事です.べ平連の頃には,作家としてある程度の活動もされており,就職云々の時代ではないはずです.
ちなみに,1950年代前半の京都府学連の書記長が久能先生,委員長が映画監督の故大島渚氏だったそうです.二人とも就職が決まらないまま卒業間近になって,就職課に掲示されていた「松竹」の求人募集を貼ってあった大島氏が見つけたそうです.「俺が先に見つけたから.俺が先に受けるけど,多分受からないだろう.そうしたら,久能,お前が次に受けろ」と杯を傾けながら,いつもに似合わないしんみりとした口調で話してくれました.今にして思えば,「お前の人生はこれからだ.どうなるかわからないにしても,未来はきっとあるぞ」と暗に励ましくれていたのだなと感じます.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%96%B0%E5%B8%82
三浦新一先生素晴らしい方でした。
もう亡くなられたのですね。残念です。
三浦先生に大学と大学院で習われていたなんて素晴らしいですね。
羨ましい限りです。
三浦先生の下の名前が知りたいです。
実名では、どこで何をされていた方なのか気になります。
まだお元気なのでしょうか???
英語の武藤先生に大学と大学院で教わりました。
授業の合間にされるお話が面白く、毒舌なところはあるが
実は非常に神経の細やかな優しい先生で
何をおしても授業には出席していました。
水城学園でお勤めされていたときの思い出話なども
されていました。
懐かしいですね~。
私は本名の三浦先生とお呼びしていましたが
武藤先生というお名前も使っておられたのですね。
すばらしいお話ありがとうございました。
情報ありがとうございました。
またFBでお会いしましょう。
corugenのおっしゃるFBページの他に、はぐれケーキの安浦ケイジさんの水城学園のFBページもあります。予備校ブギで検索してみてください。私もコメント入れています。
facebookに水城学園のページがあるのですね。
調べてみます。
(アカウントだけはもっています)
文集「風がある」はもっていないですね。
読みたいです。
自分が出ている合格体験記は所有していますが...
最近、facebookで水城学園のページを作られた方と友達になりました。私どもより10年先輩なのですが、文集「風がある」の編集委員?されていたとのこと。風があるもそうですし、水城の合格体験記はいろんな意味でスリリング。そう、水城の発行書籍は今読んでも面白かったのです(笑)。
はじめまして。
実は、以前corugenさんの水城記事読んでいました。
「つも単」の写真が懐かしかったです。
また記事書いて下さいね。
同期とはびっくりです。
先生方の写真ですが、肖像権云々もありますが、
カメラがレアな世代で、学校も消滅。
おまけに同窓会も存在しない。
顔写真も何も残っていないので
思い切って掲載しました。
今回も詳しい思いでありがとうございます。
川崎先生に指摘に行くなんてなかなかチャレンジャーでしたね。
久能先生の授業は良かったですよね。
佐藤優先生
一度、黒板に書いたことがあります。
検索してもらったら、この人の書いた文章って
ユーモラス、おもしろいオチだって誉めていただきました。おもしろいこといまも書き続けてます。
川崎先生
受験に即した勉強方法だった感じで、当時は正直好きでなかった気がします。何回かテキストもって違うのじゃないかって指摘をしにいったことがあるのですが、話しをじっくり聞いてくれる先生でした。当時30代前半でしたが、いまみると老けましたねえ。しかし、先生続けていただいてるのは嬉しいです。